住宅には管理が不可欠だ

工事契約のお礼を兼ねたチラシ

ところが人家のないところで急にバスが止まってしまいました。運転手がなにか大声で言ったと思ったら、ぞろぞろと人が降り始めました。私も降りなければならないのかと思って荷物を持とうとしたら、おまえはここに座っていればいい、と手で合図されました。気がつくと、男性はみんな降りてしまって、運転手を除くと、座っているのは女の人ばかりです。その女の人たちがじろじろと私を見るので、えっ、かなんとか言って、なんとバスの押し掛けをしたのです。バスは、ブルンと身震いをして、エンジンが掛り、笑顔いっぱいの男たちがバスに乗ってきました。私は茫然として、そして拍手をしました。乗ってきた人たちは私にOKサインをしてくれました。手伝うべきだったのかもしれないのに、あいにく言葉弱者で不安であったガイジンに、共感の笑顔を送ってくれました。
こからは女性専用バス?と思って不安になりました。
突然、運転手がなにか合図の声を出したかと思うと、バスを降りた男たちが、ギリシャ語でせーのーと乗合バスには、たまたま、同じ時間に偶然乗り合わせた人たちが乗っています。運転手もいますが、客も乗っているだけではなく、客の力が必要な時もあります。弱い人に対してやさしさを発揮しなければならない時もあるでしょう。
家具も最小限にとどめ

家を手に入れたことになる

耐震性能の強化策が必要

分譲マンションの大規模修繕工事を手掛けるときも、力を合わせることと、弱者を助けることが大事だと思いませんか?「同じマンション現場で働く」こともそうですが、何より「マンションというもの自体が共有とケア精神」で成り立っているのです。場を共有することと、お互いにいたわりの優しさを持つということです。
安全大会では、関係者が安全管理と「安心できる仕事環境」を目指して集まります。
同じ仕事を共有しているという共有意識とお互いに気遣いをするいたわり精神をぜひ現場ごとに定着させていただきたく思います。
あるマンション大規模修繕工事の現場で、作業者同士がどなりあって喧嘩をしているのに出くわしたことがあります。


マンションは建築したお客を大事にする
マンションは建築したお客を大事にする

間取りを見ると満

家さんがいよいよ出てくるかもしれません住民にも丸聞こえです。何が原因だったにせよ、どんな正当な主張がしたかったにせよ、そこは、マンションの現場なのです。乗合バスの中なのです。マンション自体が乗合バスでもあり、マンションの現場が乗合バスなのです。マンションの住民がその喧嘩の声を聞いて何を思ったでしょうか。その工事をどう思ったでしょうか。すごく悲しく思ったのではないでしょうか?そこには生活があり、生きていく家族が、人生があります。より楽しく、より仲良く、より賢く、より大きくしたい人生があります。そしてひとりではないのです。ひとりでは生きていけないのです。ひとりよがりではなくおもいやりの気持ちで、共に仕事をしているという気持ちを持ちあってこその安全であり安心が得られるのではないでしょうか。
乗合バスという例は、最近、地球規模の環境問題などでもよく使われるようです。
たまたま乗り合わせるというだけではなく、途中で降りる客もいれば新しく乗ってくる客もいます。
みんな、
安全を信じて乗合バスを共有しています。
そんなことを工事関係者一同に実感してもらえれば良いと思いますがいかがでしょうか。

ケアとシェアについて

質問先日の乗合バスの話はずいぶん参考になりました。
共通認識いたわりの精神については折に触れて私も考えることが多いです。
工務店に出会うことができる住宅の借主に限るしかし、工事現場で感じることですが、声の大きい住民こうした皆さんは、すべてこちらから配布する工事お知らせをきちんと読んで、納得して、理解していただいている、と考えて良いのでしょうか。不安になることがあります。共通認識と言っても、声を出す人の元気さに負けてしまっているその他大勢の人の声が反映できていなければ共通認識とは言えないのではないでしょうか。あまり質問の形になっていませんが、お考えをお聞かせください回答そうですね。質問者が感じていらっしゃる不安は、マンション大規模修繕工事の工事現場だけでなく、いつだってどこだって物事を決めていく場面で誰かが感じている不安だと思います。決まったことは決まったこととして良いのですが、なにかそれだけでぐいぐいと進めていって良いのだろうか、と不安になることがありますね。ましてや、声を出さない住民が多数いらっしやるマンション大規模修繕の現場では、「このように決まりましたから」とか「どなたからも不満は出ていませんので」と言って進めていって良いのだろうかという不安を感じることがあると思います。今回は、少し一般論として私の考えをお伝えするのが良さそうですね。
私も、みなさんと同様に、これまでの人生の経験や仕事のさまざまな場面を通じて、自分と家族や、自分と他人の距離の取り方やつながりについていろいろと考えてきました。

間取りを見直すと前述

その中でも最近考えるのは、シェア共有するということケアお世話するということの二つについてです。シェアは、現実的で合理的な判断を共有するという行為ですが、一方、ケアには、相手が必要と思うことを掘り起こす作業が必要です。「具体的にこうしてほしい」というはっきりとした要求が見当たらなくても、「ほんとうはこうこうしてほしいんだけど」という「隠れている要求を探る」という積極的な意思が必要だと思います。そうした意思を持つことは、元来ケアする側の義務ではないでしょうか。とかく競争社会という合理的で経済的な結論を求める流れの中においては、こうしたケアは、余裕のある場合にしか、あるいは損得を無視した環境にしか存在しないものと、私も長い間考えてきました。
でも、そうでしょうか。
今は、ケアこそが本当のシェアにつながるのではないかと思い始めています。
建設当初からバリアフリーの設計になってい


新築も基本は同じ間取り各
新築も基本は同じ間取り各

家をおすすめしてい

それは、まさに人と自分がどう生きるかという新しい課題です。
「意見を持った人が、納得し合って、理解し合って、共通認識を作る」という進め方が合理的だとは思いますが、実際の社会的な交わりにおいてはたしてそうなのだろうか、という疑問を感じる場面もあります。
ひょっとすると、強者が弱者を言いなりにしている強権関係が民主主義的なポーズをとっているだけなのではないだろうか、あるいは、そのあたりのことについては、強者の側が意識していなくても弱者の側は気付いているのではないだろうか、と思う時があります。
そんな風に考えていくと、ケアの精神があってこそ、本当のシェアが得られるのだ、という気がしてきます。
ケアの手を差し出す人は、自分から手を差し出すことによって、他人から手を差し伸べてもらうチャンスを得るのです。
最近私は遅まきながらこのことに気がつきました。
そこに初めて、自分と他の人がシェアする世界が存在するのではないかと感じています。
忙しい日常の中で、目標業務を達成することは、生活のため、会社のため、約束を守るためにもちろん必要なことです。
しかしその-方で、自分以外の他人へのケアの手を意識的に繰り出す気持ちがあれば、その結果として、自分がケアされる側にもなり、その相互関係があってはじめて、より良いシエア関係を築けるようになるのではないでしょうか。

リフォームはどうでしょう